NanatoMutsuki
welcome to my room
実力主義の帝国に王国を乗っ取られたので最強になって取り返します

第1話 守れなかった夜

 静かな夜だった。

 王城の塔を撫でる風は穏やかで、月は雲の縁を白く縁取っていた。中庭の噴水は規則正しく水を吐き、石畳を濡らしている。衛兵の足音は一定の間隔で響き、いつもと変わらぬ夜の輪郭をなぞっていた。

 その均衡を裂いたのは、腹の底を殴るような轟音だった。

 空気が震えた。石壁の奥まで響く低い爆圧。窓枠が軋み、天井から砂がぱらぱらと落ちる。遅れて、赤い光が廊下の床を走った。

 炎だ。

 遠くで誰かが叫ぶ。次の瞬間、再び爆ぜる音。今度は近い。振動が足裏を突き上げる。

 シャルルが廊下へ飛び出したとき、すでに空は赤く染まり始めていた。城壁の上に翻る旗が、炎に照らされて黒く浮かぶ。

 黒地に、銀の獅子。

 帝国の軍旗。

 月明かりよりも濃い影が、城を包囲している。門の方角から金属の衝突音。弓弦の連続する鳴り。焦げた木材の匂いが鼻腔を刺した。

「……来た」

 低く、短い声。

 振り返ると、シエルが立っていた。銀色の髪が炎を映して紅く染まる。彼女の瞳は、驚きも迷いもなく、ただ状況を測っていた。

「南門が先に落ちています。内側から開けられた形跡があります」

 説明ではなく、事実の提示。

 内側から。

 その一語が、冷たい刃のように胸を掠める。

 遠くで鐘が鳴る。だが、遅い。混乱はすでに城内へ流れ込んでいた。甲冑の足音が、外からだけでなく内からも響く。

 誰かが、手引きした。

 シエルはすでに走り出している。足取りは速いが乱れない。シャルルは遅れず追う。問いを口にする余裕はない。

 曲がり角を折れた瞬間、廊下の先で兵士が倒れ込むのが見えた。胸に深く刺さった矢羽根が、帝国の黒。

 血の匂いが熱い。

 シエルはその横をすり抜けるだけで立ち止まらない。

「王宮図書館へ」

 それだけを告げる。

 城の中心部。窓のない石の塊。

 表向きは、王宮の図書館。

 だが、そこへ向かう足取りには別の意味があった。


王宮図書館は、城の中心に埋め込まれるように建っている。

 分厚い石壁。窓はない。外光は届かず、内部は常に灯火で照らされる。壁面には魔術文字が刻まれ、触れれば微かな振動が指先に伝わる。

 入口の巨大な扉は、鋼鉄を芯にした特注品だ。表面には王家の紋章が彫り込まれ、その縁には微細な魔法陣が走っている。

 すでにフェルナンド騎士団長が立っていた。全身鎧に煤が付着し、片肩の装甲が歪んでいる。

「殿下」

 短い一礼。

 背後では、騎士二人が扉に手を掛けている。筋肉がきしみ、金属が擦れる重い音。扉は人の力だけでは動かない。内部の魔術機構が唸り、歯車が噛み合う。

 ご、と低い音とともに、隙間が生まれる。

 冷えた空気が流れ出す。古紙と石の匂い。

 中へ入ると、すぐに背後で騎士たちが扉を押し戻す。外の炎の赤が、徐々に切り取られていく。

 最後の隙間から、黒い旗が揺れるのが見えた。

 ――断ち切られる。

 内側から封鎖用の鉄棒が差し込まれる。鎖が巻き取られ、石の溝へ嵌め込まれる。魔法陣が淡く発光し、封印の紋様が重なる。

 外側からは、もはや開かない。

 図書館内部は、静かだった。

 高い天井まで届く書架。その床一面には、円形の魔法陣が描かれている。中央では黒装束の者たちが動き、無言で水晶を設置していた。床板の一部が音もなく開き、地下へ続く階段が現れる。

 暗部。

 その存在を示すものは、説明ではなく動きだ。

 国王エルヴァが、中央に立っていた。

 背筋はまっすぐで、炎の赤を映す瞳は揺れない。王妃イリスがその隣に立つ。蒼いドレスの裾が、石床に静かに触れている。

「……父上」

 シャルルの声は、思いのほか乾いていた。

 エルヴァは息子を見つめる。爆音はここまで届かない。ただ、石壁の向こうで何かが崩れる低い振動だけが、わずかに伝わる。

「国は城ではない。人だ」

 静かな声。

 怒号も悲嘆もない。

「ここはしばらくは安全だが時間の問題だ。いずれ城は落ちる。だが、人は残る。お前がいる限り、フォンテーヌは消えぬ。時間がない。フェルナンドとシエナを守護につかせるここから脱出して、お前がこの王国を救うのだ。」

 シャルルの肩に、王の手が置かれる。その温度は、確かだった。重みが、骨にまで伝わる。

 イリスが一歩近づく。彼女の指先が、シャルルの頬に触れた。冷たくもなく、熱すぎもしない。

「どうか、無事で」

 祝福の言葉は、それだけ。

 涙はない。

「フェルナンド、シエナ。どうかシャルルをお願いします」

二人は静かに頷く。

 姉のソフィアが微笑む。唇の端を、いつも通りに上げる。エレナも同じように頷く。指先が、わずかに震えているが、笑みは崩れない。

 侍女アンナは背後で控えている。両手を胸元で組み、白い手袋に爪が食い込んでいる。瞳は潤んでいるが、零れない。

 時間が、引き延ばされる。

 外の戦火とは別の、静かな温度がここにあった。


 地下への通路は狭い。

 石壁は湿り、冷たい空気が流れている。灯された光因子が、青白く揺れる。

「一方通行です」

 暗部の一人が告げる。

 通路の奥に、魔法陣。起動すれば、背後の道は閉ざされ、再び開くことはできない。

 シャルルは振り返る。扉の向こうに、家族がいる。

 自分だけが生きる。

 その選択の重さが、足を縫い止める。

「殿下が生きることが最優先です」

 シエルの声は変わらない。

 揺れない。

 だが、脱出の直前、彼女は一瞬だけ振り返った。

 石壁の向こう。炎の匂い。遠くで鳴る金属音。

 それだけ。

 彼女の表情は読めない。

 シャルルの視界に、王と王妃、姉たちの姿が焼き付く。

 魔法陣が光を帯びる。

 足が、動いた。


 重い音が響く。

 石と石が噛み合い、通路の入口が閉じていく。最後の隙間から、エルヴァの背中が見えた。

 やがて、完全に塞がれる。

 外の音が、途絶える。

 静寂。

 耳鳴りのような余韻だけが残る。

 シャルルは何も言えない。

 フェルナンドとシエルが隣にいる。

 冷たい通路を進む。光因子が次第に薄れ、空気が重くなる。城の中心から遠ざかるごとに、温度が下がる。

 湿った土の匂い。

 遠くで、水滴が落ちる音。

 北方へ続く道。

 王国の端、雪と岩の地。

 シエルの袖が、わずかに触れる。

 次の瞬間、強く握られた。

 一瞬だけ。

 すぐに離れる。

 何も言わない。

 シャルルも、何も問わない。

 ただ、前を向く。

 守れなかった夜。

 その熱はまだ胸に残っている。

 冷たい空気を吸い込みながら、彼は歩き出す。

 石壁の向こうに置いてきた温度を、忘れないまま。

 二度と、同じ夜を繰り返さぬために。