静かな夜だった。
王城の塔を撫でる風は穏やかで、月は雲の縁を白く縁取っていた。中庭の噴水は規則正しく水を吐き、石畳を濡らしている。衛兵の足音は一定の間隔で響き、いつもと変わらぬ夜の輪郭をなぞっていた。
その均衡を裂いたのは、腹の底を殴るような轟音だった。
空気が震えた。石壁の奥まで響く低い爆圧。窓枠が軋み、天井から砂がぱらぱらと落ちる。遅れて、赤い光が廊下の床を走った。
炎だ。
遠くで誰かが叫ぶ。次の瞬間、再び爆ぜる音。今度は近い。振動が足裏を突き上げる。
シャルルが廊下へ飛び出したとき、すでに空は赤く染まり始めていた。城壁の上に翻る旗が、炎に照らされて黒く浮かぶ。
黒地に、銀の獅子。
帝国の軍旗。
月明かりよりも濃い影が、城を包囲している。門の方角から金属の衝突音。弓弦の連続する鳴り。焦げた木材の匂いが鼻腔を刺した。
「……来た」
低く、短い声。
振り返ると、シエルが立っていた。銀色の髪が炎を映して紅く染まる。彼女の瞳は、驚きも迷いもなく、ただ状況を測っていた。
「南門が先に落ちています。内側から開けられた形跡があります」
説明ではなく、事実の提示。
内側から。
その一語が、冷たい刃のように胸を掠める。
遠くで鐘が鳴る。だが、遅い。混乱はすでに城内へ流れ込んでいた。甲冑の足音が、外からだけでなく内からも響く。
誰かが、手引きした。
シエルはすでに走り出している。足取りは速いが乱れない。シャルルは遅れず追う。問いを口にする余裕はない。
曲がり角を折れた瞬間、廊下の先で兵士が倒れ込むのが見えた。胸に深く刺さった矢羽根が、帝国の黒。
血の匂いが熱い。
シエルはその横をすり抜けるだけで立ち止まらない。
「王宮図書館へ」
それだけを告げる。
城の中心部。窓のない石の塊。
表向きは、王宮の図書館。
だが、そこへ向かう足取りには別の意味があった。
王宮図書館は、城の中心に埋め込まれるように建っている。
分厚い石壁。窓はない。外光は届かず、内部は常に灯火で照らされる。壁面には魔術文字が刻まれ、触れれば微かな振動が指先に伝わる。
入口の巨大な扉は、鋼鉄を芯にした特注品だ。表面には王家の紋章が彫り込まれ、その縁には微細な魔法陣が走っている。
すでにフェルナンド騎士団長が立っていた。全身鎧に煤が付着し、片肩の装甲が歪んでいる。
「殿下」
短い一礼。
背後では、騎士二人が扉に手を掛けている。筋肉がきしみ、金属が擦れる重い音。扉は人の力だけでは動かない。内部の魔術機構が唸り、歯車が噛み合う。
ご、と低い音とともに、隙間が生まれる。
冷えた空気が流れ出す。古紙と石の匂い。
中へ入ると、すぐに背後で騎士たちが扉を押し戻す。外の炎の赤が、徐々に切り取られていく。
最後の隙間から、黒い旗が揺れるのが見えた。
――断ち切られる。
内側から封鎖用の鉄棒が差し込まれる。鎖が巻き取られ、石の溝へ嵌め込まれる。魔法陣が淡く発光し、封印の紋様が重なる。
外側からは、もはや開かない。
図書館内部は、静かだった。
高い天井まで届く書架。その床一面には、円形の魔法陣が描かれている。中央では黒装束の者たちが動き、無言で水晶を設置していた。床板の一部が音もなく開き、地下へ続く階段が現れる。
暗部。
その存在を示すものは、説明ではなく動きだ。
国王エルヴァが、中央に立っていた。
背筋はまっすぐで、炎の赤を映す瞳は揺れない。王妃イリスがその隣に立つ。蒼いドレスの裾が、石床に静かに触れている。
「……父上」
シャルルの声は、思いのほか乾いていた。
エルヴァは息子を見つめる。爆音はここまで届かない。ただ、石壁の向こうで何かが崩れる低い振動だけが、わずかに伝わる。
「国は城ではない。人だ」
静かな声。
怒号も悲嘆もない。
「ここはしばらくは安全だが時間の問題だ。いずれ城は落ちる。だが、人は残る。お前がいる限り、フォンテーヌは消えぬ。時間がない。フェルナンドとシエナを守護につかせるここから脱出して、お前がこの王国を救うのだ。」
シャルルの肩に、王の手が置かれる。その温度は、確かだった。重みが、骨にまで伝わる。
イリスが一歩近づく。彼女の指先が、シャルルの頬に触れた。冷たくもなく、熱すぎもしない。
「どうか、無事で」
祝福の言葉は、それだけ。
涙はない。
「フェルナンド、シエナ。どうかシャルルをお願いします」
二人は静かに頷く。
姉のソフィアが微笑む。唇の端を、いつも通りに上げる。エレナも同じように頷く。指先が、わずかに震えているが、笑みは崩れない。
侍女アンナは背後で控えている。両手を胸元で組み、白い手袋に爪が食い込んでいる。瞳は潤んでいるが、零れない。
時間が、引き延ばされる。
外の戦火とは別の、静かな温度がここにあった。
地下への通路は狭い。
石壁は湿り、冷たい空気が流れている。灯された光因子が、青白く揺れる。
「一方通行です」
暗部の一人が告げる。
通路の奥に、魔法陣。起動すれば、背後の道は閉ざされ、再び開くことはできない。
シャルルは振り返る。扉の向こうに、家族がいる。
自分だけが生きる。
その選択の重さが、足を縫い止める。
「殿下が生きることが最優先です」
シエルの声は変わらない。
揺れない。
だが、脱出の直前、彼女は一瞬だけ振り返った。
石壁の向こう。炎の匂い。遠くで鳴る金属音。
それだけ。
彼女の表情は読めない。
シャルルの視界に、王と王妃、姉たちの姿が焼き付く。
魔法陣が光を帯びる。
足が、動いた。
重い音が響く。
石と石が噛み合い、通路の入口が閉じていく。最後の隙間から、エルヴァの背中が見えた。
やがて、完全に塞がれる。
外の音が、途絶える。
静寂。
耳鳴りのような余韻だけが残る。
シャルルは何も言えない。
フェルナンドとシエルが隣にいる。
冷たい通路を進む。光因子が次第に薄れ、空気が重くなる。城の中心から遠ざかるごとに、温度が下がる。
湿った土の匂い。
遠くで、水滴が落ちる音。
北方へ続く道。
王国の端、雪と岩の地。
シエルの袖が、わずかに触れる。
次の瞬間、強く握られた。
一瞬だけ。
すぐに離れる。
何も言わない。
シャルルも、何も問わない。
ただ、前を向く。
守れなかった夜。
その熱はまだ胸に残っている。
冷たい空気を吸い込みながら、彼は歩き出す。
石壁の向こうに置いてきた温度を、忘れないまま。
二度と、同じ夜を繰り返さぬために。

